ホーム > とちぎの文化情報について > 文化通信 > 千年の歴史を受け継ぐ「天明鋳物(てんみょういもの)」 佐野市
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更新日:2017年12月1日
『天明鋳物(てんみょういもの)』とは、下野の国佐野天明(栃木県佐野市)の地で作られた作品、佐野の鋳物師(いもじ)によって作られた作品をいいます。さらに、佐野の鋳物業そのものを指す場合もあります。
「鋳銅梅竹文透釣燈籠(ちゅうどうばいちくもんすかしつりどうろう)」(国重文)
天明鋳物の起こりは、天慶年間(938~947)に河内国丹南(たんなん)(現:大阪府南部)から5名の鋳物師が移住し、藤原秀郷の命により兵器類を鋳造したのが始まりと伝えられています。
天明鋳物の作品は、茶の湯釜をはじめ、鳥居、梵鐘、仏像、そして鍋、釜、鋤といった生活用品に至るまで、数多くの種類があります。
室町時代、技術もますます優れたものになったことは、天文14年(1545)制作の引地山観音堂(富岡町)の「鋳銅梅竹文透釣燈籠(ちゅうどうばいちくもんすかしつりどうろう)」が、国指定重要文化財に指定されたことでも明らかです。
また、茶の湯の流行と相まって、天明の茶釜の荒れた膚合いの野趣に富んだ素朴な作風は、茶人に大いに好まれ、「西の芦屋(現:福岡県芦屋町)、東の天明」として天下にその名を知られました。千利休や天下人たちが天明釜で茶会を催したとの文献も残されています。
「半甑口釜(はんこしきぐちがま)」(江戸時代中期 佐野市郷土博物館所蔵)
●織田信長と平蜘蛛釜(ひらぐもがま)
信長は欲しい茶道具あると、武力で手に入れようとしました。平蜘蛛釜を所持していた松永久秀という武将は、釜の差し出しを拒み、粉々に砕いて落城の中で切腹し果てたということです。
●豊臣秀吉と責紐釜(せめひもがま)
秀吉は、天明釜の中の責紐釜が大変気に入っていたと伝えられています。天正15年10月の有名な大茶会に使用されたことが「宗湛日記」という茶会記に記されています。
●徳川家康と梶釜(かじがま)
家康は、天明釜に「梶」という銘をつけて愛用したと言われています。独創的な形態をした名物釜で、現在、愛知県の徳川美術館に所蔵されています。
豊臣氏滅亡のきっかけとなった京都・方広寺の梵鐘の制作に39名の天明鋳物師が携わりました。
また、日光東照宮の奥宮にある家康公を祀る宝塔は、天明鋳物師の椎名伊予守(しいないよのかみ)が制作したものです。
①「梵鐘」(佐野厄除け大師)
②「銅造阿弥陀如来立像」(観音寺)
※①、②とも佐野市観光物産会館(佐野市金井上町2519)のすぐ近くです。
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